こんがり焼けた肌から、不健康そうなどろっとした赤黒い血のかたまりが出てきた。中には、黒いぶつぶつとしたものがいくつも浮いている。普通だったら病気だ。でもこれは違う。だって、いつもの私の妄想だもん。
だけど実際、苺ジャムトーストを見ただけで、こんな事を考える私は病気なのかもしれない。いや、プラス思考でいけば、作家の才能あり? んなわけないか。
「ナオ、もう七時よ。早くしなさい」どうでもいいこと考えてたら、もうこんな時間だ。
「うん」頭の中では言葉数がすごく多いのに、実際声を発するとしたらこれくらい。どおりで親からも「ナオは、何考えてるのか分からない」とよく言われるわけだ。親だったら、あうんの呼吸か何かで分かれよ。と思ったりもするが、そうはいかないらしい。
まただ。多くなってる。私の頭の独り言。
洗面所に行って軽く髪を整えると、カバンを持って玄関に向かった。
「今日は、何時くらいになるの?」
「六時くらいかな」
「あっ、そう」
朝の親子のいつもの会話。平和だ。何のいざこざも無く、家を出られる。
今のところは……

「ねえねえ、見て見て。ちょっとこれ変えてみたんだけど。どうかな?イケてる?」毎日のように、髪型やら化粧やら変えてくる紗智子が、また意見を求めてくる。
「んー、いいんじゃない。前より軽くなった感じじゃん」昨日との違いが、私にはよく分からない。
「ちょっと、ナオ、軽くなったって何それ。アタシがバカになったみたいじゃん」適当に受け流そうとしたのが、失敗だった。
「ごめん。ごめん。そうじゃなくてさ……」
「もう、いいよ。ナオに聞いたのが間違いだった」いつものお決まりの台詞。でも私は、これを聞くとホッとする。それからのフォローの仕方が、未だに見つからないからだ。いつもならこれで終わりだけど、今日はおまけがあった。
「あのさ、ずっと思ってたんだけど、ナオって趣味あるの?」直球ストレート予想外の質問がきた。私の頭の中のCPUが、フルに動き始める。それを悟られたのか、
「ちょっとちょっと、何、難しい顔してんの。無きゃ無いでいいんだけどさ。ナオは、オシャレとかって興味無いんだよね」
「う、うーん。無いことは無いけど。あんまりね」
「やっぱり」紗智子は、やれやれといったコンピューターに出てくる顔文字そのまんまの顔をして、向こうへ行こうとした。もしかして、私ってパソコンが趣味?でも何かそういうのも、おたくっぽくて嫌だ。
「あー、待って」二メートルくらい先に行ってしまった紗智子を呼び止める。サラッと髪をなびかせた紗智子に向かって、
「いや、大したことじゃないんだけどさ、私の趣味……」一旦、切ってそれから、
「寝ること!」と叫んだ。紗智子はニヤッと笑って、白い歯を見せると「あっ、そうなんだ」と言って歩いていった。
失敗だったかな。これから、私の頭の中で今の紗智子とのやりとりの 検討会 が始まりそうな予感がした。

「ハイ、これ」
「ん、何?」昼休み、唯一の親友とお弁当を食べていると、ふいに一枚の薄っぺらい紙を差し出された。黄色い色紙で作った、いかにも手作り感のあるお知らせのようなものだった。
「何か回ってきたんだけどさ、うちそういうの全然興味なくって」親友はそう言うと、たこウインナーを口にした。

 ボランティア募集!身体障がい者福祉施設ハッピーハウス
 利用者の方たちへの活動介助(車イスを押したり、話し相手、食事介助)をお願いしています。資格は特に必要ありません。職員も側にいますので、安心してどうぞ。

色紙には、そう書いてあった。
「私、興味あるかも」そう言うと、親友は予期しなかったのか、むせそうになって、
「マジ?」と聞いた。
「うん、マジ」即答すると、
「へえ、ナオってそういうとこで点数稼ぐんだ」といきなり言った。
「違うよ」
「違うって、別に悪いことじゃないじゃん」
確かに、ボランティアをやって評価を上げている生徒は何人もいる。実際に、うちの学校には、ボランティアをした証明書みたいなものがあって、行った先でサインをもらう。そして、その証明書を学校に提出する。別に悪いことじゃない。むしろ、推奨されていることだ。でも、私は何か違う。そういうことじゃない何か……決して、優等生じゃないけど。
「ごめん。ナオ、怒ってる?」いけない。また頭の中だけで物を言っている自分がいた。さっきまで笑ってた親友が、心配そうにこっちを見つめている。
「ううん。こっちこそ、上手く説明出来なくてごめん」
「まあ、ナオは真面目ってことだよね。良い意味で優等生っていうか。うちなんかボランティアやってるより、勉強してた方が楽だもん」また、「違うよ」と言いかけて止めた。代わりに、
「そうだね。まあ人それぞれだしね」何て大人的で無難なまとめ方なんだろう。でも、そんな言葉で納得したのか、親友はにこっと笑うと、今度はどうでもいい別の楽しい話をし始めた。真面目な話も、楽しい話も、どーでもいい話もし合える仲が親友だと思う。
「じゃあ、ごちそうさま。またね」すっかり、話に夢中になっていた。笑顔で親友を見送ってから弁当箱を見ると、まだチキンライスがたくさん残っていた。嫌いなグリンピースが、緑色の目のように、ところどころに乗っかっている。お母さん、入れるなって言ったのに……
 高校に入ってから、部活というのは止めた。いわゆる帰宅部。みんな頑張って走っているのを尻目に、校門から出て行く。何もやましいことは無いのだけど、ずる休みした気分になる。学校から家までは、一時間くらい。まだ四時だ。ファミマにでも寄ってから帰ろう。
いつも明るくて、ちょうどいい気温のその場所は、私のお気に入りだ。
「いらっしゃいませ」店内に入った瞬間、一気に心地良い冷気が、体に染み渡る。目的の大半は、雑誌の立ち読み。普通の女の子なら、ファッション系のものを読むんだろうけど、私はもっぱら、ゲームやらパソコンやら電脳関係ばかり。一通り、業界のニュースを確認し終えると、適当にお菓子をつまんで、レジに持っていった。
「ありがとうございました」自動ドアを抜けると、また一気に現実の世界へと押し戻された。しゃがんでアイスクリームを食べている数人の男子がチラッと私を見た。しかし、一瞬で興味ないことが判明したらしく、何事も無かったかのようにまた仲間たちと話し出した。きっと、私が遠くに行ってしまうと笑うんだ。
「見た?今のブサイクな女」って。自分でも分かってる。イケてないことくらい。恋なんて無縁なくらい。案の定、向こう側のバス停にたどり着いた時、奴らは笑っていた。
バスを待つ間、ボーッとしていた。そんな様子が、また奴らの笑いの種になるんだろうけど、いつものことだしどうでもいいや。と思っていた。
「ここから家に帰れますか?」始め、天の声のように感じた。でも天の声にしては、お告げではない。ふと横を見ると、男性が立っていた。二十代後半くらいで、髪の毛は天然パーマ(?)服装は、お洒落とも言えない、かと言って、ダサいとも言えないおっさんが着るようなポロシャツで微妙な感じだ。それより、ほっぺたを中心に、ソバカスがたくさん散りばめてあるのが印象的だった。
「いや、私に聞かれても……」正直に答えた。
何でこんなこと聞くんだろう。と思っていると、
「ぼくは今日、九時二十七分にホームを出ました。それで、九時五十七分にミゼルに着いたんです。それで今日はちょっと延びて、十五時五十三分に終わりました。それで」
「あー、ちょっと待って」私がさえぎると、
ソバカスの男は、クリクリとした目で、こっちをじっと見つめてきた。よく見ると、どこかおかしいというか、不思議な目をしていた。さっきの言動で気づかなきゃいけなかったんだろうが、どうも頭がおかしいらしい。参ったな。と思った。車イス押したり、食事介助したりはあるけど、こういう障害者と話したことなんてないし、私に聞かれても困る。腕時計に目をやると、もうすぐバスがくる時間だった。
ブォォン、キーーッ。ほらね。もう来た。一緒に乗せていくかどうか迷っていると、運転手に急かされた。あーー、もう後で考えよう。
「一緒に乗って」私はソバカスの手首をつかむと、引っ張った。思いがけず、抵抗はなく彼はすんなりとバスに乗り込んでくれた。
バスが走っている間、窓際の席で彼は、ずっと外を向いていた。私は、何か手がかりになるものがないかと必死で、ソバカスのリュックをあさる。そんな私の様子にソバカスは、気に留める様子も無く、外の景色に興味津々だった。
やっぱり、あった……。彼について記されたカードが見つかった。

 新藤智史(しんどう さとし)
 緑岡市萌末町三‐二十五
 グループホーム「紅村の家」
 ※彼が困っていたら、以下の電話番号までお知らせ下さい。
携帯 〇九〇‐****‐****(住岡)

バスの中だからと言って構ってられない。緊急事態なのだ。少し震える手で番号を押すと、すぐに出た。
「はい、もしもし」
「あー、あのー、えー」何と説明したら良いのか分からずに口ごもっていると、
「もしかして、カードを見てくれた方ですか?」と向こうから察してくれた。
「はい、そうです。彼、困ってるみたいで」
「はあ、またか。あれだけ練習したんだけどね。うーん、今、どこにいるの?」
「バスの中です。もうすぐ萌末町三丁目」少し落ち着いてきた。
「あ、そこ降りて!」電話の主は、急に叫んだ。私は、自分の事を考えることすら忘れて、向こうから徐々に大きくなってくるバス停をじっとにらんだ。降りる準備をしなくちゃと思い、ふと横を見るとソバカスは、さっきと同じ姿勢のまま、まだ外を眺めていた。
「降りますよ」バスに乗ったときと同じように、ソバカスの手首をつかんだ。お金は持ってるだろうけど、面倒だから私が二人分出す。
そんな様子が奇異に映ったのか、運転手を始め乗客たちは、怪訝な顔で私たちを見ていた。

 住岡というさっきの電話の女性が、バス停で待っていてくれていた。クリーム色のシャツで、髪は後ろでまとめていて爽やかな印象だった。
「はじめまして」私が一通り挨拶をすると、住岡さんは「ありがとう」と言って、すぐにバスの料金を支払ってくれた。少し多めに見えたので、大げさに遠慮したが押し切られた。どうもソバカスが住んでいるホームの世話係、寮母さんみたいな人らしい。聞けばこういうことは、ちょくちょくあるらしいけど、お世話になるのは警察か医療・福祉系の職業の人らしい。だから、あなたみたいな素敵な学生さんが、ここまで連れてきてくれてすごく嬉しいと住岡さんは言った。住岡さんが話している間、ソバカスはじっと話を聞き入っていた。さっきのバスのときとは、目つきが違う事が私にも分かった。今のソバカスの瞳は、どこか澄み切っていて、安心感がある表情でもあった。
「じゃ、ありがとうね。また気でも向いたら、遊びに来て」住岡さんは、最後にまたお礼を言うと一人で歩き出した。ソバカスは、私と離れていく住岡さんを交互に見比べる。そして、
「ありがとうございました」と私に向かって、おじぎをした。そのおじぎは、手と足をきちんと揃えて三十度くらいに頭を下げた、どこかのマニュアルにでも書いてありそうなおじぎの仕方だった。
「ううん、いいよ」そう言いながら、ソバカスの後ろを見ると、にっこり笑った住岡さんが振り返っていた。

「ナオ、遅かったじゃない」
「うん、ちょっとね……」
「最近、物騒なんだから気をつけてよ」
「大丈夫だよ、私、顔あんま良くないし」
「何、それ」それっきり会話は止まった。親子で黙々とコロッケを突っつく。二人での生活は、もう何年になるだろうか。父親は、私が小学生のとき、急に家を出ていてしまった。理由は分からない。
今日は、先に母がお風呂に入る番だったので、私は自分の部屋に向かった。
扉をきっちり閉めたのを確認すると、机の引き出しを開けた。手探りで、奥にある小さな箱を手に取る。次に、かばんの中からライターを取り出す。窓を全開にすると、火をつけた。
一服だ。
いけないことは分かっている。きっかけは、ボランティアだった。クリーンなイメージのこの言葉と未成年の喫煙。

その日、私は老人ホームのボランティアに来ていた。爽やかな四つ葉マークが描かれたエプロンを身に着けて、利用者さんとマンツーマンで活動する。いつもは女ということもあって、相手はおばあちゃんだけれど、その日は違っていた。職員の人から、
「人数の関係で、どうしても男の人になっちゃうの。真面目なおじいちゃんだし、変なことはしてこないと思うから……」
「ああ、いいですよ」変なことをされようがされまいが、男だろうが女だろうが、私にとってはどうでも良かった。クラスメートの中には、性格が合わないのか何なのか止めた人は、たくさんいる。
「あのクソジジイ、あたしのケツ触ってきたんだよ」なんて言ってる子もいた。
「こんにちは。ナオって言います。今日は、よろしくお願いします」いつも通りの挨拶をすると、車イスに座っていた白髪の男性は、
「ああ、そうかい。よろしく」と向こうを向いたまま言った。穏やかな声だったので、怒っているわけでもないのだろう。首が動かせないだけだ。ちょうどお昼だったので、そのまま食事の介助に入ることになった。和食中心のメニューを口に運ぶ。かぼちゃの煮つけをひとくち飲み込んだところで、男性は口を開いた。
「ワシは、名前を言っていなかったかね」こちらがそのまま黙っていると、続けて言った。
「茂山重三って言います。よろしく」
苗字と名前に、 しげ が二つも入っていたので、思わず笑ってしまった。ヤバッと思った瞬間、茂山さんの顔を見ると、してやったりの表情をしていた。ユニークなじいさんだ。名前は、本人の胸に名札が張りつけてあるから、見れば分かる。でも私は、特に気に留めていなかった。もしかすると、それが不満だったのだろうか。
どちらにしろ、それから場が和んだのは確かだ。いろんな話をした。学校のこと、家のこと、今、若い人の間でどんなことが流行ってるのか(これは、茂山さんに聞かれた。私はそういうのは鈍感なので、適当に答えた)
どんな話にも目を細めて、楽しそうに聞いてくれていた。そろそろ終わりかなと思ったとき、茂山さんは、それまでとは違う真剣な顔をして、散歩に連れていってくれんか。と言った。私は腕時計を見ると、まだ時間があったので、いいですよ。と言った。散歩くらいで何でこんな真剣な顔をするのか、その時は分からなかった。一応、職員の人に確認すると、近くならということでOKが出た。
外に出て、どちらの方向に行こうか迷っていると茂山さんは、
「ここでいいんじゃ」とつぶやいた。
「えっ」私が聞き返すと、
「ここでいいんじゃよ」ともう一度言った。
「すまんが、後ろにしまってあるバッグを出してくれんかね。小さいやつじゃ」私は言われたとおり、車イスのポケットを覗き込んだ。
バッグは、すぐに見つかった。
何てことのない普通のポーチだ。私が持っていると、
「開けてくれい」茂山さんは、何をしているとでも言わんばかりに、じれったそうに言った。
タバコだった。ライターと一緒に、タバコの箱。それだけが入っていた。茂山さんは、何か美味しいものを食べているみたいに、タバコを吸っていた。何か話したほうがいいのかと思い、
「タバコは、よく吸うんですか」と聞いてみた。
「タバコは、飲むんじゃ」タバコを口にくわえたまま、遠くを見つめていた。そして、
「お前さんも飲みなさい」と言った。
「え、私、まだ未成年なんですけど……」
「いいんじゃよ。飲みたければ、飲めばいい。」それは、特別な水、聖水でも勧めるかのような口調だった。今まで、特にタバコに対して興味は無かったけど、茂山さんが言うならと思い、私はタバコを飲んだ。しかし上手く飲めるはずもなく、むせた。誰か来ないかあせったが、茂山さんは平然な顔をしていた。
何で、ここで吸っているのか、それはたぶん、施設内では禁煙だからなんだろうけど、これ以上聞くのは止めた。一服が終わると、すまんが処分をしておいてくれ。と言って、数センチになった吸い殻を私に渡した。

それが私がタバコを吸う、いや飲むようになったきっかけだ。母親は、たぶん見て見ぬふり……だと思う。

日曜日、親友から聞いた「ハッピーハウス」に行ってみることにした。施設に電話してみたら、ぜひいらして下さい。とのことだった。最後は、お願いします。とまで言われた。
茂山さんのいる老人ホームとは、また違った感じがした。青々とした木々に囲まれたハッピーハウスは、主に四十代から五十代の人たちが暮らしている。若いのに施設で暮らしている理由は、様々。後から聞いた話によると、中には、
「そんなぁ……かわいそー」と女子高生が悲鳴に近い声を出しそうな理由で暮らしている人もいる。
受け付けに行くと、事務の人から待つように言われた。
やがて、一人の男性職員が来た。
「どうも、はじめまして。川上と言います。早速ですが、見てもらって入ってもらうといった感じでいいですか」
「はい」何となく、冷たい人だなと思った。電話の人は、明るくて親切だったのに。
ついていくと、大広間のような利用者が、みんなで集まるような場所に通された。ショッピングセンターにあるような大きなテレビを中心に、車イスの人が集まっている。老人は、いない。私から見れば、おじさん、おばさん、お母さんくらいの年代の人たちばかりだ。テレビには、NHKが映っていて、下の方に「緑岡産業株式会社・寄贈」と書いてあった。
「えっと、じゃああなたについてもらうのは、高校生だから出来るだけ若い人がいいですよね」
「いや、別にどなたでもいいですけど……」ボランティアに来てるわけだから、そんなの関係ない。しかし、川上という職員は聞いたのか聞いてないのか、辺りをきょろきょろと見回すと、
「あ、あそこにいる男性に付き添ってあげて下さい」と指を指した。