会社を辞めた日は、雨だった。
4年間勤めた会社は、どうしても入りたくて入った会社。
でも次第に、自分にはついていけないということが徐々に分かり始めた。
いろんな雑誌で使われるイラストを売っている会社、そんなクリエイティブな職種とは裏腹に、仕事は全然クリエイティブではなかった。
小さな嫌なことがどんどん積み重なって、ついに私は投げ出してしまった。
辞める日は、社員全員に「お世話になりました」の挨拶をしていった。
そうしたら、なぜか分からないけど、それほど仲の良かったわけでもない、かと言って悪かったわけでもないフィリピン人の女の子に泣きつかれた。
「有美さん、やめないで、やめないで」そんなことを言ってくれたのは彼女だけだった。思わずうるっときて、もらい泣きした。
みんなが送迎会もしてくれて、なぜかそのフィリピンの女の子は私にべったりだった。
今頃、仲良くなってもな。と思いつつ、私は空きっ腹にビールを流し込んだ。
帰り際、色とりどりの傘の花が咲く夜の小雨の中、
私は酔っ払いながらも、みんなにあらためて挨拶をして家路についた。
新天地は、もう決まっていた。
母には、また美術関係?と言われたけど、市内にある近代美術館に決まった。
やっぱり私はアートが好きで、そういうものと関わっていたかった。
無事に辞めることができて次の職場が決まったことの報告に、
普段、ほとんど前に座らない父の仏壇の前に私は座った。
父は、私が小学生の頃に交通事故で亡くなった。
魚の卸屋をしていた父は、自前のトラックで高級魚を料亭に届ける途中、普段は曲がらないはずの道を曲がったところで、
対向車と正面衝突した。どうしてそうなったのかは、相手方も亡くなってしまったから分からない。
「お父さん、ありがとう。これからも頑張るね」
私は、手を合わせた。
自分の部屋に行き、iPodでお気に入りの音楽を流すと、グッドタイミングで携帯が光った。
彼からのメールだった。付き合い始めて三ヶ月になる。
会社関係の合コンで知り合ったというありがちな出会いだった。
でも、私にとっては話しやすい人で好きだった。最初に仕事の悩みを打ち明けたのも彼だった。
彼は、私の長い愚痴を真剣に聞いてくれていた。
そして最後に彼は、
「そこまで頑張ったのなら、辞めてもいいんじゃないかな」
当時の私は、辞めるということが逃げにつながると思っていた。
でも、彼の「有美は頑張ったよ」という意味が込められた言葉を聞いたら、急に涙があふれ出してきて、
そこはレストランだったので、彼を人前で女を泣かせる悪い男にしてしまった。
その後、彼はことあるごとに、このときのことをネタに使った。
ある日、笑い転げながら、「俺にあのとき迷惑かけたんだから、有美、付き合ってくれよ」という奇妙な告白をされた。
私は、え?と一瞬止まった。でも、彼との今までの行動を思い出したら、楽しくて、
「うん、いいよ」と言ってしまった。
彼からのメールは、今度のデートの行き先の話だった。
メールは次第にめんどくさくなって、5分後には必ず電話になってしまう。
声が聞きたい。彼の声が聞きたい。そう思ってしまう。上から見ても下から見ても、左も右も斜めから見ても、完全に恋だった。
行き先はすぐに決まった。
そう言えば、水族館って子どものとき以来、行ってないよね。そんな話から水族館に決まった。
ここら辺の水族館と言えば一つしかないので、そこなんだろう。
母親や親戚からは、「有美ちゃん、早く結婚しなさいよ。30になったらやばいから」と言われる。
親戚に36で未婚の人がいるので、その人と比較される。
私は、まだ26だし、まだ大丈夫だよ。と心の中で思う。まだ、まだ。
でも今の彼氏は優しいし、私の言うこともきちんと聞いてくれるし、結婚してもいいかもと少し思った。
いや、まだ付き合って3ヶ月だ。早まるな。
彼とは街の真ん中の駅で待ち合わせた。
ここから20分ほどで水族館前駅に行ける。
事件は、帰りに起きた。
私は楽しくて、やっぱり彼は素敵だと思ってのぼせていたところだったので、
余計に記憶に残ってしまったのかもしれない。
その後、私はこのときのことを「水族館事件」と呼んでいる。
駅のエレベーターに二人で乗ったところだった。
二人で夢中で話していたので、すぐに気づかなかったけど、向こうから車いすの人が来るのに気がついた。
「すみません!乗ります!」彼は、一人で車いすをこいでいた。
私は、テレビで見たことのある車いすマラソンの人はあんな感じだったかも。と思い出した。
彼の乗るスペースは十分あるし、当然、(ひらく)のボタンを……。と思ったところ、
恋人は無表情で(しまる)を押した。
あと二メートルくらいのところだった。
閉まる瞬間、車いすの彼が、「あぁー」と言うのが聞こえた。
閉まってエレベーターが動き始めたあと、「えぇ、何で閉めたの?間違えた?」私は、恋人を責めないように聞いた。
そうしたら、「だって、狭くなるじゃん?俺、閉所恐怖症だから」と言い放った。
4年間勤めた会社は、どうしても入りたくて入った会社。
でも次第に、自分にはついていけないということが徐々に分かり始めた。
いろんな雑誌で使われるイラストを売っている会社、そんなクリエイティブな職種とは裏腹に、仕事は全然クリエイティブではなかった。
小さな嫌なことがどんどん積み重なって、ついに私は投げ出してしまった。
辞める日は、社員全員に「お世話になりました」の挨拶をしていった。
そうしたら、なぜか分からないけど、それほど仲の良かったわけでもない、かと言って悪かったわけでもないフィリピン人の女の子に泣きつかれた。
「有美さん、やめないで、やめないで」そんなことを言ってくれたのは彼女だけだった。思わずうるっときて、もらい泣きした。
みんなが送迎会もしてくれて、なぜかそのフィリピンの女の子は私にべったりだった。
今頃、仲良くなってもな。と思いつつ、私は空きっ腹にビールを流し込んだ。
帰り際、色とりどりの傘の花が咲く夜の小雨の中、
私は酔っ払いながらも、みんなにあらためて挨拶をして家路についた。
新天地は、もう決まっていた。
母には、また美術関係?と言われたけど、市内にある近代美術館に決まった。
やっぱり私はアートが好きで、そういうものと関わっていたかった。
無事に辞めることができて次の職場が決まったことの報告に、
普段、ほとんど前に座らない父の仏壇の前に私は座った。
父は、私が小学生の頃に交通事故で亡くなった。
魚の卸屋をしていた父は、自前のトラックで高級魚を料亭に届ける途中、普段は曲がらないはずの道を曲がったところで、
対向車と正面衝突した。どうしてそうなったのかは、相手方も亡くなってしまったから分からない。
「お父さん、ありがとう。これからも頑張るね」
私は、手を合わせた。
自分の部屋に行き、iPodでお気に入りの音楽を流すと、グッドタイミングで携帯が光った。
彼からのメールだった。付き合い始めて三ヶ月になる。
会社関係の合コンで知り合ったというありがちな出会いだった。
でも、私にとっては話しやすい人で好きだった。最初に仕事の悩みを打ち明けたのも彼だった。
彼は、私の長い愚痴を真剣に聞いてくれていた。
そして最後に彼は、
「そこまで頑張ったのなら、辞めてもいいんじゃないかな」
当時の私は、辞めるということが逃げにつながると思っていた。
でも、彼の「有美は頑張ったよ」という意味が込められた言葉を聞いたら、急に涙があふれ出してきて、
そこはレストランだったので、彼を人前で女を泣かせる悪い男にしてしまった。
その後、彼はことあるごとに、このときのことをネタに使った。
ある日、笑い転げながら、「俺にあのとき迷惑かけたんだから、有美、付き合ってくれよ」という奇妙な告白をされた。
私は、え?と一瞬止まった。でも、彼との今までの行動を思い出したら、楽しくて、
「うん、いいよ」と言ってしまった。
彼からのメールは、今度のデートの行き先の話だった。
メールは次第にめんどくさくなって、5分後には必ず電話になってしまう。
声が聞きたい。彼の声が聞きたい。そう思ってしまう。上から見ても下から見ても、左も右も斜めから見ても、完全に恋だった。
行き先はすぐに決まった。
そう言えば、水族館って子どものとき以来、行ってないよね。そんな話から水族館に決まった。
ここら辺の水族館と言えば一つしかないので、そこなんだろう。
母親や親戚からは、「有美ちゃん、早く結婚しなさいよ。30になったらやばいから」と言われる。
親戚に36で未婚の人がいるので、その人と比較される。
私は、まだ26だし、まだ大丈夫だよ。と心の中で思う。まだ、まだ。
でも今の彼氏は優しいし、私の言うこともきちんと聞いてくれるし、結婚してもいいかもと少し思った。
いや、まだ付き合って3ヶ月だ。早まるな。
彼とは街の真ん中の駅で待ち合わせた。
ここから20分ほどで水族館前駅に行ける。
事件は、帰りに起きた。
私は楽しくて、やっぱり彼は素敵だと思ってのぼせていたところだったので、
余計に記憶に残ってしまったのかもしれない。
その後、私はこのときのことを「水族館事件」と呼んでいる。
駅のエレベーターに二人で乗ったところだった。
二人で夢中で話していたので、すぐに気づかなかったけど、向こうから車いすの人が来るのに気がついた。
「すみません!乗ります!」彼は、一人で車いすをこいでいた。
私は、テレビで見たことのある車いすマラソンの人はあんな感じだったかも。と思い出した。
彼の乗るスペースは十分あるし、当然、(ひらく)のボタンを……。と思ったところ、
恋人は無表情で(しまる)を押した。
あと二メートルくらいのところだった。
閉まる瞬間、車いすの彼が、「あぁー」と言うのが聞こえた。
閉まってエレベーターが動き始めたあと、「えぇ、何で閉めたの?間違えた?」私は、恋人を責めないように聞いた。
そうしたら、「だって、狭くなるじゃん?俺、閉所恐怖症だから」と言い放った。
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